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当院は、日本における近代医学の父として知られ、伝染病予防や細菌学の発展に大きく貢献した北里柴三郎博士によって1893年に設立された結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」を前身としています。以来、120年以上にわたり、博士の信念を守り続けてきました。

予防医学の重要性を提唱

北里柴三郎博士は破傷風菌の純粋培養(破傷風菌だけを取り出し培養する)や血清療法の確立、ジフテリアと破傷風の抗血清開発など、細菌学の分野で多大な功績を上げ、国内外での伝染病予防と治療に貢献したことで知られていますが、そこには、医の基本は予防にあるという信念がありました。

北里博士は1853年、現在の熊本県阿蘇郡小国町に生まれ、1871年に18歳で熊本医学校に入学しました。当初は政治家か軍人を志していましたが、当時同校で教鞭を取っていたオランダ人医師コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトの指導を受け、医学の道を志し、1874年に上京。東京医学校(明治10年 東京大学医学部に改称)で学識を深めました。

上京初期の学友との写真(北里柴三郎記念室所蔵)

東京大学医学部在学中に記した学生集会での演説原稿『医道論』の中で、「人民に摂生保健の方法を教え体の大切さを知らせ、病を未然に防ぐこと」と、予防医学の重要性を説いています。

また、北里柴三郎は「研究は目的の如何に関わらず、実際に役立つ医療・予防の上に結実されるべき」とし、病気の診断や治療に役立つ研究に注力しました。
こうした北里博士の信念は、今でも診療と予防、研究に力を注ぐ、当院の姿勢に強く表れています。

細菌学分野で数々の功績を上げる

東京大学卒業後、内務省衛生局(厚生労働省の前身)に奉職し、1886年からドイツに留学。炭疽菌の純粋培養や結核菌の発見などの業績で知られる、病原微生物学研究の第一人者、ローベルト・コッホに師事して研究に励みました。

そして、1889年に世界で初めてとなる破傷風菌の純粋培養に成功し、翌1890年には破傷風菌の毒素を中和する抗体を発見しました。さらに、毒素を無毒、弱毒化して少量ずつ注射すると、体内でその抗体が作られ、病気の治療や予防が可能になる、「血清療法」を開発します。まだ、伝染病に対する有効な原因療法が存在しなかった当時、血清療法は画期的な手法でした。

血清療法は破傷風菌にとどまらず、ジフテリアにも応用でき、ジフテリアの純粋培養に成功したエミール・フォン・ベーリングと連名の論文『動物におけるジフテリアと破傷風の血清療法について』を発表しました。この一連の功績により、北里博士は一躍国際的な研究者としての名声を博すことになります。

1892年に帰国すると、福澤諭吉等の援助を得て私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所の前身で1899年に国立伝染病研究所となる)を設立し、所長として伝染病予防と細菌学の研究に取り組みます。翌年には、日本で最初の結核治療専門病院であり、当院の前身である土筆ヶ岡養生園を設立し、結核予防と治療に尽力しました。

土筆ケ岡養生園
土筆ケ岡養生園(北里柴三郎記念室所蔵)

数多くの弟子と慶應義塾大学医学科創設

1914年、国立伝染病研究所所長を辞任した北里博士は、私立北里研究所を設立し、狂犬病やインフルエンザ、赤痢などの血清開発を続けました。1918年には社団法人として認可され、2008年、北里学園と統合し、学校法人北里研究所として現在に至ります。

北里研究所(創立当時の建物)
北里研究所(創立当時の建物)(北里柴三郎記念室所蔵)

自身の研究のみならず、後進の指導にも熱心に取り組んだ北里博士は、伝染病研究所から北里研究所時代で過ごした40年あまりの研究生活の中で、ハブ毒の血清療法を確立した北島多一、赤痢菌発見者の志賀潔、サルヴァルサン(梅毒の特効薬)を創製した秦佐八郎、寄生虫が媒介する病気の研究で業績をあげた宮島幹之助、黄熱病の研究で有名な野口英世など、多くの優秀な弟子を輩出しています。

(左から)北島多一、志賀潔、秦佐八郎、宮島幹之助、野口英世
(左から)北島多一、志賀潔、秦佐八郎、宮島幹之助、野口英世(北里柴三郎記念室所蔵)

また、福澤諭吉の没後15年目にあたる1917年、慶應義塾大学医学科(現在の慶應義塾大学医学部)創設にも関わり、初代科長、病院長に就任し、福澤諭吉の恩に報いました。

明治・大正時代という日本の近代医学の黎明期に予防医学の礎を築いた北里柴三郎博士は、1931年6月13日、78歳の生涯を閉じました。しかし、北里博士が抱き続けた「病気を未然に防ぐことが医者の使命」という予防医学への思い、その実現のためには情熱を持って研究に取り組まなければならないという信念は、今なお当院に深く息づいています。